宮宿(みやしゅく、みやじゅく、宮の宿、熱田宿)は、
東海道五十三次の41番目の宿場である。中山道垂井宿にいたる脇街道美濃路や
佐屋街道との分岐点でもあった。
一般には宮の宿と呼ばれることが多かったが、幕府や尾張藩の公文書では
熱田宿と書かれている。
東海道五十三次の41番目の宿場である。中山道垂井宿にいたる脇街道美濃路や
佐屋街道との分岐点でもあった。
一般には宮の宿と呼ばれることが多かったが、幕府や尾張藩の公文書では
熱田宿と書かれている。
Am7:19
お世話になりました 旅籠前
Am7:55
名古屋名物 喫茶店 入ったど
コーヒにパン、ゆで卵
別にミニ生野菜
熱田神宮
名古屋市南部、熱田台地の南端に鎮座する。
古くは伊勢湾に突出した岬上に位置していたが、
周辺の干拓が進んだ現在はその面影は見られない
三種の神器の1つ・草薙剣(くさなぎのつるぎ、天叢雲剣)を祀る神社として知られる。
ただし、剣は壇ノ浦の戦いで遺失したとも熱田神宮に保管されたままともいわれている。
また、景行天皇43年創建と伝えられており、同年は西暦に換算した場合に113年
とされることから、2013年(平成25年)に創祀1900年を迎えるとされ、
同年5月8日に「創祀千九百年大祭」が行われた
七里の渡し(しちりのわたし)は東海道五十三次で知られる宮宿から桑名宿までの
海上の渡しで、かつての官道。この渡しの宮宿側、または、
桑名宿側の渡船場のみを指して「七里の渡し」と呼ぶことも多い。
Am9:18
「尾張名所図会」によれば、この石地蔵は、もと三河国重原村(現、知立市)にあったが
、野原の中に倒れ捨石のようになっていた。
三河より焙烙を売りに尾張に来るものが、荷物の片方の重しとしてこの石仏を運んできて、
、ここで焙烙を売りつくしたた後、海辺のあし原に捨てて帰った。
地元の人がこの石仏を発見し、土中に埋まっていた台座と思われる角石に置いた
Am10:33
Am11:22
天林山と号し、真言宗である。俗に笠寺観音の名で知られ、
尾張四観音の一つである。
天平年中(729~)禅光上人の開基で、十一面観世音を安置する。
初め小松寺と称したが、
延長年中(923~)藤原兼平が堂宇を再興し、
今の寺号に改めた。
のち再び荒廃したが、嘉禎4年(1238)僧阿願が朝廷に願い出て、
宣陽門院庁より田畑の寄進を受け堂塔を建立した
。当寺には重要文化財・
一里塚は、慶長9年(1604)幕府が主要街道を整備し、
江戸(東京)日本橋を起点に、道程一里(約4Km)ごとに道の両側に塚を築き、
榎などを植えたもので、旅人に距離を示しただけでなく
、荷物その他の運賃計算の基準にもなった。ここは江戸から88里のところにあり、
名古屋市内を通る旧東海道に残る唯一の一里塚で、
東側の塚だけが現存している。
Am11:33
Am12:33
鳴海宿
Am12:44
本日は鳴海宿でお終いです
電柱に宿の史跡紹介があるので、それを読みながら歩くと宿の概要がわかる。
丹下町常夜燈
- 1792年、宿の西の入口に設置された。
-
- 平部町常夜燈
- 1806年、宿の東の入り口に設置された。
- 鳴海は寺の多い街【鳴海寺詣り歌】わらべ唄
- 東海道の鳴海宿 寺銭用意しなされや 西よりはじまる寺参り
- 風呂敷かぶりの光明寺 花井小路の長翁寺 ちょっと入った東福院
- お腹に仏の如意寺 出たり入ったり誓願寺 三猿がまえ圓道寺
- 縁の高いは円龍寺 まんまん曲がって万福寺 木林山を真っ二つ
- 右に構える浄泉寺 中島橋の三つ股を 左に行けば浄蓮寺
- 右にとれば善明寺 平部はずれの金剛寺 松原越えて四本木の
- 左に傾く神明社 右に行けば御諏訪社 中におさまる二殿様
- 越えて絞りの有松の 左に高い天満社 右にとれば桶狭間
- 信長公の奇襲戦 義元公の首塚に その霊まつわる長福寺
-
この後、有松宿まで
次回は、有松宿より江戸え向かいます
2013/12/13~15日を予定してます
旅の途中 少し寄り道をしながら
行こうかなと、?のんびり旅
目指します。
次回お楽しみ・・
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