2013年12月8日日曜日

旧東海道次 番外編 42番 桑名宿~佐屋街道~41番 宮宿

2013/11/2、
桑名宿でお目覚めです
本日は、七里の渡しで(船で)宮宿まで
行きます
 
桑名宿は江戸から42番目の宿駅で、
尾張から海上七里を渡り 伊勢神宮へ
参拝する人々で賑わいを見せ、
        また木曽・揖斐・長良川の三大河川が合流する
    河口に位置し、物資が集積される 要所としても繁栄した。 
 
 
 
江戸時代後期の調査では、本陣2軒、脇本陣4軒、旅籠や120軒を擁し、家数2,544軒、
人口8,848人(男4,390人、女4,458人)であったと記録されている。
東海道では旅籠屋数で宮宿に次ぐ2番目の規模を誇った。
 
おっと・・・今の時代は船が出ていません
 
脇往還(わきおうかん)は、江戸時代の五街道以外の主要な街道をいい、
脇街道」や「脇道」とも呼ばれた。脇往還もまた、五街道と同様に道中奉行が管理しており
、宿駅・一里塚・並木などが整備された所も多い。
 
 
佐屋街道(さやかいどう)は、江戸時代に東海道の七里渡しの迂回路として開設・利用された
脇往還で、東海道宮宿と桑名宿
とを結んでいた。佐屋路(さやじ)とも呼ばれる。
 
東海道の宮宿と桑名宿との間は七里の渡しを利用しなければならなかったが、
天候次第で船が出ない日もあり、船が出ても安全とは言えない場合もあった。
船酔いをする人や、
犯罪に巻き込まれやすい女性や子供の旅人からも七里の渡しは敬遠され
、七里の渡しの迂回路として盛んに利用されたのが、この佐屋街道である。
桑名宿から川船で佐屋宿まで三里の渡しで結ばれていた・
旅籠の前で・・
 Am7:00
本日は長い道のりになります

 Am7:11
 


 歴史を語る公園
 


 Am7:25
桑名城の石垣

 
 春日神社の青銅鳥居が見える。
 
  「桑名に過ぎたるものは銅の鳥居に二朱女郎」とうたわれた有名な鳥居である






 
しるべ石は人探し用の掲示石で、左右に 「たづぬるかた」「おしへるかた」
 
書かれていて、それぞれが、そこに紙を貼る
 
Am7:38
 
 七里の渡し
伊勢の国の東の入口にあるため、伊勢神宮の
「一の鳥居」が天明年間に建てられた。
 桑名宿と宮宿の間は江戸時代随一の海路で、
その距離が七里(約28キロ)あることから
七里の渡しと呼ばれた



Am8:10
 揖斐川&長良川
 長良川に架かる水門
 

 Am9:20
 
 長島三丁石取祭
この祭事は、神社の玉垣の敷石を一年に一度
新しくする為、町屋川から美しい石を拾い採ってきたもの
 
 Am9:29
 



 Am9:36
旧長島城大手門

 
Am10:15 
木曽川 三重県と愛知県の県境
 Am10:50
 
 Am11:03

 明治天皇・佐野屋本陣 休憩された。
 

 佐屋代官所跡
 

 江戸時代このあたりは佐屋船番所前で
旅籠があつた
 
 絵図によると 目の前が川でしたよ・・・
 
 Pm12:15
実りの秋を迎えています
 
佐屋海道記念の石碑 
 
 

Pm1:15
 
埋田追分
此処は津島神社の一の鳥居「昭和34年伊勢湾台風で倒れた」
台石のみと常夜灯と一対追分を表す道標が残ってる
江戸時代ここから左が津島神社の道 右は佐屋街道
佐屋の渡しに分かれるところ
江戸時代の終わり頃には茶店など
とうる人で賑わい大正時代まで
松並木が続いた



Pm1:33
 


 
Pm1:43
佐屋の渡し神守宿の間に架かる
日光橋


Pm2:08
神守の宿場跡
佐屋街道の万場宿(名古屋市)と佐屋宿との間が
 
余りにも長かった為 天保4年に神守宿が出来た


Pm2:27
 


Pm3:13
 
七宝焼きの発祥の地

Pm3:21
 




Pm3:59
 




Pm4:09

Pm4:16
 


門に『臥龍山』の額が掛かっている。この山門は織田信長と斉藤道三が会見した
富田村聖徳寺(尾西市)の山門を移築したものと言われている。
山門の前に大きな石灯籠がある。


境内を入って右手の背の高い石柱に『ち丶の観音医王山覚王院』、
その側に『奉納・千手観音菩薩』の赤い幟がはためいている
Pm4:37

Pm5:10
 
いや~暗くなりました
本日の旅籠まで・・
Pm5:26
 


Pm5:58
 
佐屋街道のご案内
Pm6:03
 

 
 

Pm6:47
 
宮宿手前のJR金山の駅前です
宮宿手前ですが 旅籠が取れません
名古屋まで戻るかと・・
助かりました・金山プラザホテル
Pm7:20到着です
頑張りました
 
味噌カツを食して明日に備えます。
 
 
佐屋街道は、寛永3年(1626年)と11年(1634年)の三大将軍徳川家光の通行を契機として
整備が進められた。寛文6年(1666年)には幕府の道中奉行が管理する官道に指定された。
この街道は、熱田(宮)宿と桑名宿を結ぶ七里の渡しの風雨による欠航や
、船酔いを嫌う多くの旅人が行き交い、東海道の脇往還として非常に賑わっていた。
商用や社寺参りの人々、参勤交代の大名行列、
さらにはオランダ商館のシーボルトや十四代将軍家茂、
明治天皇もこの道を通行している。永年にわたり日本の幹線道路網の一部を担ってきた
この街道も、明治5年(1872年)の熱田と前ヶ須新田(現弥富町)
を結ぶ新道の開通によりその役目を終えた。
 
 
此処までの参考資料・これからも利用資料・
新之助の京街道
人力ー旧街道を歩く 佐屋街道
浮浪雲;東海道一人旅
 旧東海道ルートラボ


 


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